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アイデンティティ
私が彼女と出会ったのは屋上でのこと。
憂鬱な昼休み。
嫌味な程青い空の下、ジリジリと焼ける鉄筋コンクリートの感触が、上履き越しに踵に伝わってくる。
本来立ち入り禁止のココには誰もいない。
誰も来てはいけないから、落下防止のフェンスも低いもので、私は無意識に乗り越えてしまいそうになる。
そっとフェンスに近寄って、力なく両手指の十本をひっかけてみる。反対側から見たら、虚ろな私の瞳の所為も相成って、きっと外の世界を乞う動物園の動物みたいに見えただろう。
確かに、私は外の世界を望んでいたかも知れない。
外の世界というより、ここではない世界。
いつからかの性分で、私はよくぼうっとしてると言われる。無愛想だとか、怖いとか、何を考えているか分からないとか、影でこそこそクラスメイトが言っているのを知っているし、気味の悪い子、変な子、年相応でない子、近所のオバサンに混じって我が子を嘲笑する母親の声だって、聞いたこと……あるのよ、実は。
笑わないのは、楽しくないから。
何も望まないのは、魅力あるものがないから。
泣かないのも、驚かないのも、心動かす何かがないから。
遠くに大きな雲が浮かんでいる以外、青一色の空。太陽は背中の向こうにあって、ジリジリジリジリ、地面を焼いている。冷え切った私にも、汗ばんだ感触がする。特に理由もなく伸ばした黒い髪を、鬱陶しいと思うのは、当の本人である私以外の誰か。
青い空と、遠くに見える高いビル、忙しなく車の行き交うアスファルト。それから色々なものを象る黒い影。目の前の、今すぐにでも乗り越えてしまえる程のフェンス。遠い地面。飛び降りたら一体何秒で地面にこの意味のない体を叩きつけてしまえる?
どうやら集中していたらしい。
やってくる他人の足音と、気配と、息遣いに気づかなかった。
重い鉄の扉の、錆びた音と同時に少し高めの声が響く。
「おや? 先客だ」
おどけた調子でそう言われて、私は振り返る。
規定より数センチ短いスカート、暑いからだろう、捲くられた袖。そうまでするのにわざわざ長袖を着るのはなぜ? 思うが私には関係ないことだ。
日に焼けた素肌と、日に焼けたのやら故意に染めたのやら、茶色い髪の毛。彼女は仔猫みたいに、私をみるなり目を細めて笑った。
私は無言で彼女を射る。
対する私は、規定の長さのスカートと、真っ黒な長い髪、色素のない肌。始めから、何かを諦めたように落ちて来る瞼。
しばらく彼女とは、見詰め合ってしまった。
不意に、彼女の、艶やかなぽってりとした唇が動いて、清潔な白い歯が覗く。イタズラな八重歯。
「自殺でも、するの?」
彼女は言った。
その不躾さに、私はさして驚きもしない。
暫く彼女を見つめて、否とも応とも言わなかった。
別に嘲っているわけではない、ただ無邪気に聞いてくるだけのその好奇心の色が、私には眩しくて、答えられなかったのかもしれない。
「ねぇ」
と呼びかけられて、やっと我に返った。
我に返ったけど、どうやら私に表情の変化はなかったらしい。
「自殺、するの? 昼休みに? 昼休みだからするの? みんな大騒ぎにしてやりたいの? 誰かに恨みでもあるんだったら、ソイツ真っ青ね。校内大騒ぎね。そしたら休校にでもなるかな、そうなったら明日の数学、あたし当てられなくてすむなぁ、ホラ、あした8日じゃん? あたし出席番号が8でさぁ」
にこにこと、こんな、私に対してこんな、こんな笑みを向けて雄弁に喋る人間なんて、何年ぶりに出会っただろう。
それにしても、どうだろう、この娘の言葉。
「ねぇ、自殺するの?」
してよ、してみせてよ、とせがむ様に彼女は言う。
私はさして何も考えずに
「してもいいよ」
答える。
彼女は「へぇ」と、猫の鳴き声みたいにただの相槌の調子で言った。
「する理由があるの?」
彼女が言う。
さすがの私も少し考えて、一瞬俯いてから、顔を上げる。
「ないことは、ないけど…」
「曖昧ね」
「今から死ぬ人間に、死ぬ理由なんて聞いてどうするの」
「あれ、本当に死ぬ気なの」
「さぁね」
私の呼吸のような声に、彼女は はっ、と一瞬声を上げて笑った。
錆びた色した扉が風に揺れてギィギィ音を立てる。
「ま、どっちにしろ、死ぬからこそ、理由を残すべきじゃない。死に行く人間にしか、死にたい理由なんかないんだから」
案外的を射たことを言う。
こんなナリした女子生徒は、流行とか、色事とか、友達付き合いとか、旬のドラマとかアイドルとか、そんなことばかり考えてるのかと思っていた。
だってみんな私とは正反対だから、私の興味のないものにはあるのかと、勝手に思ってた。
黙っていると、顔に笑みを残したまま、彼女はスカートのポケットの中から飴を取り出して、包みを解いて口に放り込んだ。
口の中でころがされて、唾液に溶ける飴の音が聞こえる。
「死ぬ理由は?」
どうでもいいじゃない、
とは、なぜか言う気が湧かなかった。
彼女には関係ないはずなのに、言えなかった。
なんでだろうな。
きっとずっと先になっても分からないかもしれない。
問われて、私の頭の中に灰色の画面がズラリと並ぶ。
沢山の、フィルターをかけたつまらない日常の現象たち。
興味の無い事象。
笑い声を上げるクラスメイト達。
クーラーで涼む職員室の先生。
噂話をして、面白おかしい尾ヒレつける頭あるくせに成績に活かせない人たち。
他人の悪口にだけ口達者な人間。
魅力的なもののない世間。
同じニュースを何度も報道するマスコミ。
自分を見て腫れ物のように扱う血を分けた人たち。
何も言わなかったら「その目は何?」と言って、何か言ったら「口答えしない」と言って、打つ、自分を産み落とした罪な人たち。
開いた唇から、声が出ない。
暫く喋ったりしなかったから、声の出し方を忘れてしまったのかもしれない。
彼女は歯で飴を削るような音を出しながら、待つ。
変な子、何で私の言葉なんか待つの。
変な子、何で私なんかに構うの。
「生きていく、理由がないから」
やっと声が出た。それでもその声は掠れていたような気がする。
もし私が自殺を考えているとして、まぁ、考えない事もないけど、死んでもいいな、とは思うので、そう思う理由。
ああ、このフェンス、やっぱ越えようかな。
落ちる瞬間、人間何を最後に思うの。
ちょっとだけ、興味が湧いた。
「ふぅん…」
彼女は、まだ笑ってる。
口元だけで、笑ってる。
なんだか、思い出すものがあった。
……。
ああ、思い出した。
不思議の国のアリス。
あれだ。
あれに出て来た、三日月の形に唇を吊り上げる、紫色の猫。
強い風が吹いて、鉄の扉がギィ、っと揺れて、そのまま錆びた音を撒き散らして締まっていく。
耳障りな音。
それから、豪快な音を立てて、扉が閉まった。
さすがに、肩が、ビクリと攣った。
私より扉の近くにいた彼女の方が、びっくりしてて、変な調子に喉が動くのが見えた。彼女はとっさに左手を胸元に当てて、私に駆け寄って、腕を掴んだと思った途端、引っぱった。
「は…っ?」
思わず声を上げた私を器用に扉の向こうへひきずる。
暫くして階段を上ってくる音がして、扉の開く音。
誰か様子を見に来たのだと、すぐに直感した。
それから、風の所為か…というぼやきと、扉を閉める音。
暫くして、彼女はやっと私を解放した。
握られた右腕の手首がじんわりと温かい。
「っ…、っくりしたぁ!」
彼女は途端に声を上げた。
私は側で前触れなしに声を上げられて、嫌そうな顔をしてしまった。
彼女はそんな私に気づいているのか気づいていないのか、眉を八の字にしたまま、へらりと笑って、左手を胸元に持っていき、ぽんぽんと叩いた。
「飲み込んじゃったよ、飴ぇ」
その笑う顔に一瞬呼吸を忘れた。
「びっくりしたね」
「………」
「しなかった?」
「した、けど」
「見つかったら怒られるとこだったよー」
またー、とか言ってる辺りを見るとどうやら屋上侵入は初めてではないらしい。私にいたっては、初めてではないが、こうして誰かと鉢合わせたのは初めてだった。
昼休み終了の、予鈴が鳴った。
彼女はにこり笑って、不意に手を差し伸べた。
不思議に思って、私はその手を見つめてしまう。
そうすると、じれったいとでも言うように、彼女は私の右手を取った。
他人の体温を感じる。
「行こう、昼休み終わるよ」
「終わるけど…」
「けど、何?」
「この手は何……?」
わざわざ手を、繋ぐ?
怪訝に思って問うが、私に手を振り払うつもりはなかったし、どうしてだか、振り払うという行為を人間ができることを忘れていた。
「あたし、汚くないよ?」
聞いてくる、日に当たって茶色の瞳。
私は内心、どっちかといったら、汚いのは私の方だと思う。
だって、腹の中が、こんなにも不満だらけで、汚い。
「そういうわけじゃ」
「ならいいじゃない」
それから彼女はぐい、と私の腕を引く。
それから錆びついた扉を力いっぱい引いて、唸り声を上げさせる。引かれて、慣れないその引力に、バランスを崩してしまいそうになりながら、校舎の内部へと戻って行く。
階段を降りながら、テンポのいい足音にかき消されそうになる彼女の声が聞こえる。
「ねぇ」
「何?」
「自殺、できなかったね」
ああ、別に、自殺するつもりだったわけじゃない。
校舎内だと他人の吐いた二酸化炭素がいっぱいで、それは私を疎いと思っている人間にとっても一緒で、できれば私がいて、息が詰まる思いをして欲しくないだけで。
「あたし来たから、できなかったね」
振り向かないで、さっきのような笑顔を見せずに彼女は言う。
声に笑みが含まれているような気がして、笑った口元でそう言葉を紡いでいるのだと分かる。
私は、相槌を打たない。
彼女は続ける。
「ねぇ」
「なに」
「生きる理由がなくて死ぬって、言ったよね」
「うん」
「生きる理由の有無と、死ぬ理由はイコールじゃ結ばれないと思うな」
は?
と、そう思った。
何を言っているのだろう、と。
自分の意見を否定されるのは不愉快なもので、私は一瞬俯いた。
私の腕を引く、彼女の細い腕。
彼女は続ける。
「ベタなこと言うけどさ、生きる理由がなかったら、それ、探す、て選択肢もさ、あるじゃん」
なんだか、自分に言い聞かせるように言っている気がした。
私の視線は
彼女の細い腕に釘付け。
返答できなかった。
そうね、とか。
いや、それは違う、とか。
言えなかった。
だって彼女の腕に裂かれた皮膚がくっついた、その証があったから。
焦げた彼女の腕に、その何箇所かだけ、新しい皮膚。
真っ白な、白いラインが。
「生きる理由、あたしにはあるかなぁ」
ぼやくように彼女は言った。
了
高校1年のときに書いたような気がする。
これは、もう一人の女の子視点の話も書こうとしてやめたやつだなぁ。
めんどうで